高橋哲也と申します。
1982年千葉県で生を受け静岡県在住です。
今回はお茶の歴史を学びながら、なぜ静岡はお茶の一大産地となり、ここまで発展したのかを紐解いていきます。歴史に沿って考えていきましょう。
目次!!
お茶歴史、静岡茶の始まり
「♪お茶の初めは三粒の種よ、栄西禅師の唐みやげ♪」
静岡県の茶摘み歌ではこの様に歌われていた。
栄西禅師(えいさいぜんし)は明庵栄西(みょうあんえいさい)という名の平安時代~鎌倉時代初期の僧でお茶を語る上では欠かせない一人です。
この栄西禅師は日本で茶を広めた最初の僧であると考えられています。
この栄西禅師が抹茶を中心とする現在の茶道につながる茶を中国からもたらしたという意味では間違いはないのですが、しかし、日本の記録に茶が現れるのはこれよりずっと前なのです。
そしてもう一人、聖一国師(しょういちこくし)である。この聖一国師という名は諡号(しごう)で諡号とは位の高い人に死後送る名前となっていて、生前の名は円爾(えんに)という。今後、円爾(えんに)と呼ぶことにします。
この円爾は静岡茶の始祖と言われており、静岡茶の発展を語る上では欠かせない一人です。
静岡県では現在でもこの円爾の誕生日11月1日は「静岡市お茶の日」に制定しています。
この静岡茶の始祖は1241年に中国留学から帰ると、1244年故郷の母を訪ねた時に中国から持ち帰った茶の種を足久保にまいたとされている。
余談なんですが、博多は、うどんや蕎麦が発祥の地と言われていますが、このうどんや蕎麦の技術も円爾が中国から持ち帰ったものとされています。また博多市の大きなお祭り祇園山笠は疫病よけのため円爾が施餓鬼(せがき)を行い、祈祷水(きとうすい)をまいたことが始まりとされている。
平安時代の茶のいれかた
遣唐使、留学僧によって中国から学んだとされているお茶ですが、この平安時代はどの様にお茶が飲まれていたのでしょう。
平安初期の815年4月、滋賀県柄崎(からさき)において中国留学の経験のある永中とういお坊さんが嵯峨天皇に茶を差し上げたと【日本後記】に記してある。
この時代、朝廷は中国に対し憧れがあり、お茶は中国文化の象徴のように考えられていた。その為お茶は高級とされていて、階級の高い人しか飲めなかった。有名な僧の空海や最澄も茶を飲んでいたとされている。
この時代にお茶がどの様に煎れられ飲まれていたか?日本の文献には残っていないので中国の文献【茶経】から推測してみる
- 新茶を蒸す
- 臼(うす)で潰して団子状にする
- 乾燥させる
- 円盤状に加工
- 炭火で炙って固める
この固形物を『餅茶(へいちゃ)』といい、飲む時には炙り、薬研で粉にして、沸騰した湯に入れ煎じ出し、塩を加え飲んだとされている。
現代のお茶と比べると工程も多くなんだか面倒ですね。
この手法は平安時代中頃には廃れていったとされています。儀式用に継承はされていったようですが、この様な背景もあり平安後期に登場する、栄西禅師がお茶を広めた人という認識になったのだろう。
鎌倉時代~安土桃山時代の静岡茶
1244年に円爾が母を訪ねた際に、中国から持ち帰った、お茶の種を足久保に蒔いたとされていますが、円爾の故郷は安倍川最大の支流、藁科川の上流にある栃沢の米沢家である。
円爾の母は源平争乱のなかで都から落ちてきた高貴な女性とされている。
円爾の故郷は栃沢だが、この時なぜ足久保に??と思うかもしれませんが、当時は栃沢から足久保まで峠を越える街道があり、円爾は足久保の土地がお茶を育てるのに適していると思ったのではないでしょうか。
闘茶(とうちゃ)、鎌倉時代の遊び
栂尾(とがのお)の茶を本茶、その他を非茶とし、この本茶を当てるゲーム
なぜ栂尾の茶が本茶とされ、他の茶と区別されているかというと、中国から栄西禅師が持ち帰った茶の種子を京都栂尾の明恵(みょうえ)に贈ったものをもとに茶園が作られ、日本で最も由緒正しき茶とされた。明恵とは華厳宗の僧。
この闘茶で分けられた種子が宇治に播かれ、それが宇治抹茶の始まりとなった。
清見寺(せいけんじ)の茶
さて先の説明の通り栂尾の茶が一番との位置づけだったのだが、これに続く茶として、
我朝名山者以栂尾為第一也 仁和寺、醍醐、宇治、葉室、般若寺、神尾寺、是為輔佐 此外大和室尾、伊賀八島、伊勢八島、駿河清見、武蔵河越茶 皆是天下所皆言也
異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)
などの地方の名前があがる、いずれも後世に茶産地として有名な地方です。
なぜ?清見寺の茶がリストアップされたのかというと
- 東海道に面し由緒正しき寺
- 旅する貴族、上級武士は立ち寄ってお茶を飲む
などであろうと考えられている。
清見寺と茶の歴史は深い。【関東往還記(かんとうおうかんき)】という記録によると、「儲茶(しょちゃ)」という記載があり、この儲茶の解釈は難しいのだが、茶を楽しんでいた事は間違いないでしょう。ただ、この茶がどこの茶かは分からない。
【関東往還記】とは叡尊(えいそん)が1262年に書いたもの。叡尊は鎌倉中期の僧。
整理すると
- 円爾、足久保に茶を蒔く(1241年前後)
- 関東往還記(1262年)にお茶の記載がある
- 闘茶は醍醐天皇の無礼講(1324年)が最初ではないかと考えられている
- 異制庭訓往来(1278~1346年)
ここで一つ疑問が、円爾が清見寺へ行って茶の種を蒔いたのか?
記録では、清見寺が再建されたときの法要(1261年)に円爾が居たとされているが、これ以前に行ったという記録は見つからない。しかし関りを持っていたことから、これ以前に円爾が清見寺に行き、お茶をもたらしたのではないかと考えるのは自然ではないか
この時代、清見寺に限らず茶が栽培できる気候ならば、各地の寺院では鏡内で茶を栽培していたとされている。
鎌倉時代の茶いれかた
- 新茶を摘み
- 蒸す
- 和紙に広げ炭火で乾燥
- 茶臼で引く、抹茶になる
平安時代の茶の入れ方に比べると、大分簡素になり、現代っぽくなってきました、こうして茶が広まっていったのでしょう。しかしこの時代はまだ庶民が簡単に口にできるものでは無かったです。
江戸時代の静岡茶
江戸時代静岡の茶を話すうえで、徳川家康の名がでてくるだろう。家康が駿府城内の数奇家(すきや)で茶を飲んでいたとされる記録がある。
家康と言えば誰もが知る人だが、仙台の伊達政宗も有名人ではないだろうか、伊達政宗が家康を訪ねた際に駿府城内の数奇家でお茶を賜ったとされていて、この駿府城では茶会が開かれ、重要人物と会い、政治的話し合いがなされていたのだろう。
数奇家とは茶室、勝手、水屋が備わった、茶を行う建物
この時代お茶は、大変貴重で重要なものであった、家康はこのお茶を保管する蔵なども作っていた。有名なものに大日峠の御茶壺蔵がある。この倉の警護などを任されたのが「海野」家だ。そしてこの海野さん、子孫が後で静岡茶の発展していくのに重要な人物になっていきます。
政治の場で出され、人が来た時にも出されていた、年貢茶という言葉もあり、この年貢茶は年貢の変わりに徴収されるような茶だから高級な茶であった事が想像できます。
庶民は茶を楽しめたか!?
江戸時代の狂言や絵などから見ても、庶民もお茶を飲めていたようだ、しかし、貴族や上級武士、僧などが口にするものとは違っていたようだ。
位の高い人が飲んでいた茶→高級な抹茶
庶民→下級品の抹茶、煎じ茶、番茶
とされていて、この抹茶と煎じ茶、番茶の違いについても少し触れておきます。
高級抹茶になるには2つの工程があります
- 新芽を蒸して焙炉(ほいろ)で丁寧に乾燥
- 石臼で微細な粉末にする
この粉末が「抹茶」ですね。①の状態を「碾茶(てんちゃ)」と呼ばれます。
保存容器にも名前がありました
- 茶葉を保存するもの・・・茶壷
- 抹茶を保存するもの・・・茶入れ、棗(なつめ)
庶民はどの様な工程でお茶を飲んでいたのだろう?
- 茶葉を蒸し天日干し、石臼で粉末にする
- 茶葉を蒸し天日干し、煮だして飲む
- 釜で炒って、もむ、乾燥させる、煮だして飲む
抹茶に関しては、天日干ししているものは下級品として扱われていた。この様な粉末にするような手間を加えずに飲まれ出したのもこの時代、庶民から始まっているのだろう、今私達が口にしているお茶と同じようになってきた。番茶というのは、地域ごとの伝統的な製法によって茶の総称。この番茶は地域により違い、単純なものから、長い日数懸けて製造するものもあった。
位の高い人達が飲んでいた抹茶を作る為、精細な石臼、粉末をすくう為の茶杓(ちゃしゃく)、攪拌(かくはん)用の茶筅(ちゃせん)などの茶の湯用の道具や作法などが整備され始めた時代でもあった。
庶民はどの様な茶を消費していたのか
この時代の抹茶といえば、「宇治」であろう。日本一の産地であろう。抹茶でなく、そのまま飲むための茶はどうだったかというと、「阿部茶」「駿河茶」「足久保茶」などが江戸市中の茶問屋の扱い商品としての記録に残っている。そして静岡の茶の評価は高かったとされている。
芭蕉が読んだ!!静岡お茶の句
ここで松尾芭蕉の俳句を2つ紹介させて頂きます。
花橘とは、花の咲いている橘ですね。橘とはミカン科の木です。
この句が読まれたのが1694年5月
橘の花が咲くのは5月からです、香り高く、爽やかな香り。
色々な解釈ができると思いますが。
花橘の香りはするが、駿河の茶のほうが気になり、駿河の茶にはかなわないと言ったところでしょうか。
この「茶の匂ひ」とは新茶の事と解釈される事が多いそうですが、旧暦の5月は新茶の季節ではないので、庶民が作っている番茶の匂いではないか?という説もあります。
この句は1684年に読まれたものです。
馬で寝て、気が付くと朝茶を煮だす煙が見え、お茶の爽やかな香りが漂ってきたという句であろう
松尾芭蕉が寝起きに読むほどだ、この時代から駿河にはお茶が定着していたのだろう。
明治以降の静岡茶
西暦1868年が明治が始まったた年だが、この明治が始まる少し前1854年に日本は日米和親条約を締結して開国が実現した。お茶の輸出も活発化していく。
現代のお茶は、ほとんど機械で揉捻(じゅうねん)という、作業工程で、圧力をかけ、成分が出やすいように作られているが、江戸時代に始まった「手揉み」が進化して、茶師たる人たちもいた。この手揉みには流派が存在していて地域により最適な技術が伝承されていった。
牧之原の開墾と勝海舟
今ではお茶の産地として有名な牧之原ですが、明治初期この場所は人の手が入っていない荒れ地で川も無く、開墾作業は想像を絶するほど過酷で身体を壊すものも数多く居て放棄してしまうものもいたそうです。しかしこの時代輸出が行われ始め、お茶は主要産業だったので、誰かが行わなければならない作業だったのでしょう。
この牧之原開墾には2つのグループが携わっていました。
- 将軍警護部隊、中條景昭、大草高重などの隊士
- 失業中、川越人足33人とその家族
中条景昭、大草高重!剣から桑に
幕府崩壊後、無禄覚悟で主君の徳川家達(とくがわいえさと)に従い静岡に入る。中条を隊長とした精鋭部隊は、将軍の警護担当していた。その後勝海舟の命で徳川家康の廟がある久能山の警備を任された。その後、任を解かれる。この時幕府崩壊があり、当時の情勢は目まぐるしく変化していたことでしょう。大量の武士たちが失業し、旧幕臣達は生き方について決断しなくてはならない状況だったことでしょう。
中条ら精鋭部隊は久能村に住んでいましが、町人の家に居候して肩身の狭い日々だったことでしょう。勝海舟に相談し「この地(牧之原)を与えてくれるなら、死を誓って開墾し一生を終えよう」といい、資金援助をしてもらい牧之原開墾に入る。明治2年中条、大草を含む士族200戸余りが移住した。
翌年、元影義隊など84戸が加わる合計300戸余りが「中条組」「大草組」「榊原組」「久保組」に分かれ開墾に当たった。
中条景昭は家中の武士たちに武術を指南する剣術・柔術世話心得などを歴任する剣客であったといいます。
この時、幕臣の誇り、剣で鍛えた肉体があったとは思いますが、開墾をするという事は、農作業に加え、住居、食料の全て自らで何とかしなくてはなりません。この時体調を崩すもの、逃げ出すものも数多くいました。
開墾から5年後には118人にまで武士は減っていました。色々な要因から生活を支えきれなくなった武士たちは違う仕事について、開墾地は増えっていった、農民などに売られました。その後農民などの手によって茶園は広がり美しい景観を生み出し、静岡の最高の産業となっていくのでした。
大草高重は最後までこの地にとどまり、この地で明治25年に亡くなりました。勝海舟が墓碑書きを依頼され大草に「手なれつる 玉の小琴の緒をたゝむ 古りししらべは 聞く人もなし」との詩を残しています。寂しい心情を小琴になぞえられ詠んだものですね。
「死を誓って開墾しよう」といった、中条は開墾に成功させたことから、明治7年頃に神奈川県知事の誘いがありましたが「一たん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」・・・アンタ!男だな!と言いたい。かっこいいですね。現在では島田市にいけば、中條さんの銅像にあえます。明治29年に亡くなります。このお葬式は勝海舟が葬儀委員長を務めました。
失業者、丸尾文六(まるおぶんろく)の力を借り
明治4年、川越人足33人とその家族が牧之原南部に住み開墾した。なぜ川越人足が失業したかというと、大井川に橋を架けることは許されていなく、人々は川を渡る為、人足の力を借りていたのだが、明治維新後、橋が架けられた。この為1300人が一気に失業した。
この時、救済措置とし丸尾文六らが世話人となり開墾計画を立案し、牧之原開墾に携わる事になる。
この時、武士とは違い、先に田んぼを作り自給体制を整えた。そして、丸尾文六という指導者がいた事は大きかっただろう。
後の話にも出てくるのだが、この丸尾文六という人は静岡のお茶に欠かせない一人だろう、牧之原の開拓もそうだが、中央事業本部という茶の総本山的なものができたときに選出されていて、衆議院議員にもなり、静岡県菊川市の丸尾原水神宮に祭神として祀られている。 境内には「丸尾文六報恩碑」が建立されている。
静岡茶の輸出
上記は日本全体の生産と輸出を表しているのだが、お茶の生産量が増え、明治36年では生産量の訳86%が輸出されていた。この時代横浜、神戸、長崎からしか茶輸出ができなく、横浜港が圧倒的な割合を占め、独占していた。その為静岡の茶業者は横浜に運び輸出していた。
この様な事もあり、静岡の茶業者は清水港から直接、輸出することが悲願になっていた。この悲願を達成するため皆頑張り、色々な事をしたことでしょう。その中心的人物が「海野孝三郎」という人で、家康が作った蔵の警護を任されていた人、海野さんの子孫です。
皆様の頑張りの結果、明治39年5月13日清水港から茶の直輸出が始まった。そして独占していた横浜の座を奪い、茶の輸出港の地位を確立し、横浜などにあった、外国商社も次々に静岡に店を開いた。名実共に茶の町、静岡になった瞬間である。
悪い奴はいつの時代もいる!!
清水港からの直貿易がはじまる24年ほど前、明治15年アメリカで「贋茶輸入禁止条例」というものが可決された。これは日本から入ってく茶に粗悪茶が多く、怒った結果だ。これは茶貿易拡大に伴い不届きものが一時の利益の為、茶に柳葉、クコ、ひじきなどを混ぜたり、乾燥が不十分な茶を入れたりしていたようだ。乾燥が不十分だとカビが生え最悪の品質になる。この一時の利益を得るためにやった行為が大きな国益を害してしまった。昭和戦前期まで茶の最大の貿易国はアメリカだった。
この時静岡では、厳重なお咎めや、お触れを出し、製茶業を免許制にしたりして、低品質の茶について製造を禁じた。
このアメリカの条例に日本は背筋が凍ったことだろう。この時代の茶はほとんど輸出されていて、一大産業になっていたのだから、日本政府は本腰を入れ対応しなくてはならなかった。
- 粗悪茶を防ぐため組合を結成するよう指導
- 茶業組合準側を配布
などをして、各県対応していった。この時、茶業組合の統括本部として「中央事業本部」というのも出来た、これは当時の茶の有名産地から役員が選出された、静岡からは丸尾文六が選出された。この様な対応は実を結びお茶はその後も輸出を続けられました。
中央事業本部は粗悪茶根絶だけでなく、世界各地の茶の情報収集などをしてその情報を後世に残してくれた。この時、海野孝三郎も参加していた。再製機械の発明し、富士製茶の設立者、原崎源作(はらさきげんさく)。沼津で学校を作り、色々な産業を行った、江原素六(えばらそろく)や名家の出身者で教養も深く地域の将来を考え行動できた指導者が多く居ました。その人達のおかげで静岡は茶の中心とし発展し、今があります。
手揉み技術
手揉みと言っても、産地によって土質、日照時間や新芽の性質などを考え、どれくらい蒸し、どういう風に揉むか?など最適な技術が地域ごとに工夫されていた、やがてその違いが流派となって独自性を強めていく。色々な流派が生まれ競い合って良いものが出来ていく。この様な手揉み流派が形成されたのは全国でも静岡県だけなのである。
手揉みの話をするならば、橋山倉吉の話をしておかなくてはなりません。倉吉は手揉みにかけた執念のすさまじさから鬼倉と呼ばれた伝説的な茶師です。倉吉は明治2年に牧之原で生まれ12歳から製茶に従事し17歳で製茶教師の資格を取り伝習教師として1200人以上を指導しました。勉強熱心で負けず嫌いな性格だった倉吉は日々手揉みに対し考えていたそうです。蕎麦打ちをみて応用できないものか?など考えていたそうです。倉吉14歳のとき手揉み技術の転操(テングリ)製法を編み出す。その結果教えを乞うものが増え「倉開流(そうかいりゅう)」と称した伝習所を開く。鬼倉こと倉吉は明治40年39歳の若さでこの世を去ってしまいます。(転操に関し諸説あります)
明治20年に『静岡県茶揉職競』という番付には2600名もの茶師の名前が刻まれている。
明治38年多くの流派の優れた点を取り上げ総合して、もっと良質の茶を作れる技法がまとめられ、これを「明治38年製法」と呼ぶ。以後はこれに従い講習会などが開かれ、各流派の違いは少なくなっていった。昭和42年に静岡県は無形文化遺産に「手揉み製茶技術」指定している、この時16名を認定している。現在は個人でなく流派を対象としていて、継承しているのは8流派
- 青透流
- 小笠流
- 幾多流
- 倉開流
- 川上流
- 鳳明流
- 興津流
- 川根揉切流
ビタミンC発見!!
大正12年、静岡県掛川出身の三浦政太郎氏によって、日本茶には大量のビタミンCが含有されていることが発見された。
大正時代、日本茶の効能には大いに注目されていた、『静岡県茶業史・続編』には薬効成分及成分と題する章があり、殺菌効果、動脈硬化、毒素破壊、糖尿病、自家中毒予防など現代でも注目されている薬効がこの時代には知られていた。
なぜ?静岡茶はうまいのか
中国から種を持ち帰ってくれた人、命がけで開墾してくれた人、貿易を静岡から始めた人、世界の茶の情報をもたらしてくれた人、茶師などがいて、今のお茶がありますね。この人たちが本気で取り組んでくれたおかげで、今静岡はお茶の一大産地として成り立ち、美味しいお茶が出来ているのではないでしょうか。そして現在、引き継がれお茶は良いものは引き継がれ、進化し、現代の人の努力で美味しくなっています。
さいごに
少々長いページになってしまいました。書きたいことが多すぎて・・・もっとまとめて読み易い記事が作れるよう日々精進していきます。
お茶に関する色々な所に行き、勉強してきます。今回の記事が良かったと感じたらブックマークしてください。新しい記事ができましたら、Twitterでつぶやきます。是非フォローしてください。(プロフィール下にTwitterボタンあります)
参考文献
- 中村洋一郎(2019)『しずおかの文化新書6』創碧社
- 神津朝夫(2009)『茶の湯の歴史』角川選書
- 大森正志、他(2017)『茶の辞典』朝倉書店